亡父の捕虜生活しのぶ、本山収容所跡地で思い出話

地元住民に戦時中の話を聞くウィリアムズさん(右から2人目、本山町で) 米国メリーランド州ボルチモア在住のメリーランド大教授で医学博士のリチャード・ブランド・ウィリアムズ三世さん(62)は十一日、亡父、ウィリアムズ二世が戦時中に収容されていた本山捕虜収容所の跡地を訪れた。本山地区の住民とも交流し、当時の収容所の様子を聞いて父親をしのんだ。 軍医として従軍していた亡父は一九四一年にグアムで日本軍に捕まり、四二年、香川県善通寺市の捕虜収容所に入れられた。福岡県北九州市門司の収容所に移された後、四三年八月に本山の収容所に入れられ、終戦まで過ごした。

多くの捕虜が本山炭鉱で採炭をさせられる中で、亡父は収容所内で医者として活躍。四五年九月にはアメリカに戻り、海軍病院の医師として働いた後、八三年に六十八歳で亡くなった。
ウィリアムズさんは京都市にある民間病院から医学講演会の講師を要請され、来日したのを機に、亡父の足跡をたどろうと、妻のカレンさんと共に十、十一日の日程で山陽小野田市を訪れた。本山町の海辺に面したエリアにはかつて捕虜収容所があり、アメリカ人のほかイギリス人、オランダ人など約四百人が収容されていた。
ウィリアムズさんは国田勝彦さん(81)や原田美智子さん(75)ら当時から本山町に住んでいる地元住民六人に案内され、今は雑草が生い茂り、痕跡すらない収容所跡地で、戦時中の様子を聞いた。
捕虜にたばこを差し入れすると一本を三、四人が回しのみしていたことや、日本が敗戦した直後には逃げ出すようにして看守がいなくなったことなどに、興味深そうに耳を傾けていた。ウィリアムズさんも、グアムで捕まった時は一八〇ポンド(約八二kg)だった父の体重が、本山捕虜収容所を出た時は一一三ポンド(五一kg)になっていたと紹介した。
終戦後は、米軍がパラシュートに結わえた食料などの物資を解放された本山捕虜収容所に投下。原田さんは「ガムやチョコレートを目当てに、わたしたち子供は、収容所にもらいに行った」と振り返った。
ウィリアムズさんはパラシュートの布地や遮光カーテンの裏地などを使って手作りした縦五十㎝、横七十㎝の星条旗の写真を地元住民に披露。終戦直後、収容所に掲げられ、亡父が持ち帰ったもので、現在はウィリアムズさんの手元にある。
ウィリアムズさんは原爆の投下について日本人はどう思っているかを地元住民に聞くなど、日米両国にとっての戦争が持つ意味合いを浮き彫りにしていた。
「地元の人と思い出を共有できてうれしい。善通寺の捕虜収容所跡も訪れたが、その時、三人の女子中学生が自転車で通り抜けた。この子たちはおそらく収容所があったことも知らないだろうと思うと、今の平和な世の中に、ぐっとくるものがあった」と話した。
ウィリアムズさんは旧本山炭鉱斜坑口や焼野海岸にある捕虜運搬船座礁場所も見学。二十四日までの滞在中、広島市の広島平和記念公園なども訪問する。

カテゴリー:その他の話題2010年4月12日

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