周防灘台風災害経験を後世に

当時の潮位を知ることができる風水害救援感謝碑(中川2丁目の市シルバー人材センターで) 県西部の沿岸に甚大な被害をもたらした周防灘台風から、もうすぐ70年を迎える。高潮によって、家族や友人、そして住む家を一夜にして奪われた。災害を経験した市民にとっては忘れ得ない記憶だ。被災者の証言や手記には、今後の自然災害への備えに対する警鐘が込められている。

風水害が地域を襲ったのは1942年8月27日。戦時中の報道管制下で、被害の詳細について不明な点も残されているが、県西部に最接近した時は、大潮で満潮と重なる最悪の条件。無数の船舶が打ち上げられ、臨海部は壊滅状態だったという。
稲荷町の瀬口孝典さん(82)は当時、旧制小野田中の1年生。夕方まで、自宅近くの友人の家で勉強に励んでいた。強風でガラスが割れたことを覚えている。
「小野田市史」によると、市内で強風が吹き始めたのは午後5時前ごろ。市内は停電、鉄道も運休した。7時すぎには各所で警報が鳴り響き「警察、市役所、警防団、青年団員を動員して堤防の決壊防止に努めた」とある。新開作四十番堤防、後潟沖堤防、有帆川河口下木屋の堤防が決壊。市街地は一面海と化した。
瀬口さん自身は警報を聞いた記憶はないが、堤防付近に住む知人が家に避難してきたことから、危機が迫っていることを知った。間もなく「堤防が切れた!」「とにかく逃げろっ!」という声を聞き、母と幼い妹、弟を連れて、高台を目指して暗いあぜ道を走った。
地元の旧家で、一緒に逃げてきた近所の人たちと一夜を過ごした。自宅は1階部分が水没したが、家にとどまっていた父や兄、そして知人は2階に避難して無事だった。田畑には坑木が散乱。産業道路(県道小野田港線)には牛や馬の死骸のほか、団平船まで流れ着いていた。堤防の潮止めが完了するまで約1カ月間は「満潮時はほぼ毎日、床上まで波が押し寄せていた」という。
須恵尋常高等小学校尋常科(須恵小の前身)を1940年3月に卒業した同窓生たちが13年前に記した「思い出の記」にも、「ゴーという音と共に隣の家が潰れた」などと、当時の記憶が記されている。
中川2丁目の市シルバー人材センター敷地には、風水害救援感謝碑が建立されている。被災後に全国各地から贈られた衣類などの救援物資に感謝の意を込めた碑で、土台の高さに相当する約1・8㍍まで浸水したとある。
「山陽町史」には、下関測候所(現下関地方気象台)の発表として「中心気圧966㍊、北東の風、午後8時には風速34・2㍍、降雨量48㍉」と、気象情報が記録されている。
当時の厚狭町では、梶の岸壁や沖開作の堤防を越え、古開作の県道まで海水が押し寄せた。生田村(後の旧埴生町)では「無傷の漁船は一隻もなく、海辺の家屋は全て倒壊」という惨状。応急措置に軍隊も出動している。
旧小野田市内では、死者125人、海水の浸水で収穫できなくなった田畑は472町8反(約468㌶)。同年11月に県が発表した数字では、被災者は全市民に相当する4万9950人。死亡142人、負傷24人、行方不明8人。家屋は倒壊90戸、流失77戸、床上浸水4006戸など計9990戸となっている。
旧山陽町では、厚狭で8人、生田で1人が死亡。被災者は計2655人。家屋は計531戸が被害を受けた。
県全体では、死者・行方不明者794人、負傷者559人、全壊流失家屋4986戸、半壊・一部破損家屋9060戸、船舶被害2257隻という報告がある。
これは、45年9月の枕崎台風(死者・行方不明者701人、全壊流失家屋1831戸)や、51年10月のルース台風(死者・行方不明者405人、全壊流失家屋2111戸)を上回る被害の大きさだ。
光栄町自治会(田村征巳会長、約130世帯)は「過去を顧みて未来につなげていくことが大切」と、26日に慰霊祭を開き、被災者の体験談を聞く。
昨年9月に自主防災会を結成。4月から準備を始め、数年来途絶えていた夏祭りの復活と合わせて「地域を考えるきっかけに」と企画した。
副会長の西村弘和さん(69)は「建物は建て替わり、人々の暮らしも落ち着いたが、もともとの地形は変わっていない。過去の教訓に学び、互いに声を掛け合うという絆を大切にしていかなければ」と思いを込めた。

カテゴリー:その他の話題2012年8月25日

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