「戦国領主 財満家」を顕彰、小野の館跡に大型石碑

除幕された財満家顕彰の石碑(小野東阿武瀬で) 関ケ原の戦いで西軍の総大将を務めた毛利輝元に長門国鹿小野村(現在の宇部市小野)の領主を任じられ、この地を長く治めていた財満(ざいま)家を顕彰するために「戦国領主 財満家館の跡」の石碑が地元の郷土史研究グループ、毛利秀就公誕生地史跡保存会(平山智昭会長、20人)の手で建てられた。小野東阿武瀬の現地で11日、財満家の子孫や史跡保存会のメンバーら約30人が集まって石碑の除幕を行った。同家ゆかりの墓や遺構を今後、史跡として整備する。

中世の小野は、厚東郡鹿小野村といい、財満忠久、その息子の就久が地域を平穏に治めていた。就久は領内の寺を全て浄土真宗に改宗し、村民同士の親和と協調の取れた領地とし、外敵を寄せ付けない平原岳(395㍍)もそびえ、藩主毛利輝元は要害の地として信頼していた。
さらに輝元が側室二の丸(周姫)に産ませ、後に長州藩初代藩主となった嫡男、毛利秀就は1595(文禄4)年に広島城で生まれたとされていたが、平山会長が下関市長府にある財満家に伝わる記録文書から、小野の財満家館の一角、西御殿で出生したことを6年前に突き止めた。
輝元は訳あって懐妊した二の丸を広島城に置いておくことができなくなり、財満就久に託した。実際に生まれたのは1591(天正19)年とも記されていた。そして財満家は輝元の命により、その事実を400年以上にわたって口外していなかった。
この歴史的発見を平山会長は3年前に「二の丸様の子秀就公その誕生の謎を解く」の冊子に著し、今年5月には誕生の地と記した石柱を館跡に建立している。
今回の石碑は中世の小野を治めた財満家を顕彰しようと建てた。萩市佐々並で採取された自然石を材料に、高さ1・5㍍、横1・2㍍の碑に仕上げた。
除幕式では平山会長が「自分の足で現地に赴き、そこで語らうことにより、歴史の真実に迫ることができる。秀就誕生の真実や財満家の功績を長く後世に伝えたい」とあいさつした。
この日は広島県東広島市、下関市、宇部市などに住む財満家の子孫が出席。渡部和代さん(東広島市)は「史跡保存会のご尽力で430年前の史実を明らかにし、毛利家の歴史に一石を投じることになり感謝している」とお礼の言葉を述べた。
子孫らは除幕式の後、近くのゴルフ場の中にある財満忠久の墓や、生まれた毛利秀就や側室二の丸を暗殺者からかくまうための穴蔵などを見て回った。史跡保存会では今後、墓の移設や穴蔵の適正な保存運動に取り組む。

カテゴリー:教育・文化2012年9月12日

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