復興支えた記念館、終戦間際は市役所も”入居”

戦後間もないころの記念会館(「市勢要覧1948」から) 終戦間際の一時期、宇部市の記念会館には市役所や警察署が〝入居〟していた。市民の記憶からは遠ざかっているが、歴史をたどると「市民館」の通称で親しまれた同館が文化の殿堂だけでなく、戦災復興の拠点の役割を果たし、精神的なよりどころとなっていた姿が浮かび上がってくる。

大量の焼夷(しょうい)弾が市街地に投下されたのは1945年7月2日未明。奇跡的に焼け残ったのが、旧宇部銀行館(ヒストリア宇部)や記念会館だった。
記録によると、市役所と警察署は被災直後に、記念会館へ移転。岬、神原、新川、鵜ノ島の国民学校(現在の小学校)と、県立医学専門学校(山口大医学部の前身)の5カ所に、市役所の臨時出張所が設けられている。
市役所は同月31日に分散疎開。警察署は、それ以前の28日に北琴芝にあった市営の食肉処理場へと移った。本庁機能があったと確認できるのは、いずれも1カ月に満たない。
ただ、47年9月には労働基準監督署を館内に開設。48年10月には市役所西部出張所が小串通りに新築落成して「記念会館から移転」との記録が残り、その後も記念会館では相当数の機関の職員が働いていたと考えられる。
戦後の古い記念会館の写真には、正面左側の屋上に屋根が付いた小さな建築物が確認できるものがある。「火の見やぐらではなかったか」と記憶している古老も多い。
かつて消防は警察組織の一部門だった。消防組織法の施行に伴い、宇部市に消防署が設置されたのは48年3月。署員らも当初は記念会館を拠点にしていたとみられる。
時期は明確でないが、国民職業指導所(公共職業安定所の前身)も入居していたという。「あふれた求職者で業務があまりに多忙を極めたため、職員の中には、同じフロアにあった市役所に頼んで、無試験で市職員として雇い入れてもらい転職した人もいた」という話が残っている。
幼い頃から記念会館周辺を遊び場としていた岡田銀二郎さん(86)は、終戦後の8月25日に復員して琴芝駅に降り立った。一面が焼け野原で、生家は跡形もなく、遠くに記念会館が見えた光景を今でも思い出す。
直後に、まだ館内に残っていた市役所の課を訪れる機会があった。机が置かれていたのは1階ロビーで「窓側から明かりを得るために、不規則に配置されていた」と記憶する。その後、10月中旬まで市役所で土木測量の仕事に携わったが、その時には別の場所にあった仮庁舎に通ったという。
戦後の混乱が落ち着き始めると、館内では映画上映が再開され、ダンスパーティーや展示会が開かれ、時に見合いの場としても利用された。やがて、宇部好楽協会が著名な音楽家を招き、音響効果の優れたホールとして国内外に存在を知られるようになった。
岡田さんは考える。「今でこそ記念会館より立派なホールは全国に数多いが、戦災直後にあれだけ立派な建物は残っておらず、市民にとって唯一無二の財産だった。『文化的な建物があるから』と宇部にわざわざ移り住んだ人さえいる。記念会館の存在が、戦後復興に拍車を掛けた」と。
市制施行90周年に当たる今年、記念会館は完成から75年目を迎えている。

カテゴリー:教育・文化2011年7月6日

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