福原越後の肖像画見つかる

容姿を伝えるのは「木像」だけとされていた福原越後公(1815~1864年)の肖像画が、防府市の毛利博物館に所蔵されていることが分かった。百五十回忌の今年、新たな史料を探していた宗隣寺の山中天道住職らが発見。裏打ちや表装がない〝未完成状態〟で、作者など詳細は分かっていない。肖像画と木像は姿勢や着衣が酷似しており、同博物館や宇部市内の郷土史研究家は「同じ下絵があった可能性がある」「木像は肖像画を元に作られたのでは」などと推測している。

博物館によると、肖像画は1912年までに毛利家から預かったもので、縦97・2㌢、横45・0㌢の絹に顔料で描かれている。明治時代に毛利家が、犯罪者扱いされた一族の復権と顕彰を目的に発注したとみられる。作者は不明で、未完成なのは▽何らかの事情で制作が中断▽完成品(現時点で未確認)の予備だったため不要になった│のいずれかが考えられるという。
史料としての信ぴょう性は、〝本家〟である毛利家が持っていたものだけに非常に高い。ただし、その容姿については「関係者の記憶が残っている明治期に作られた」とはいえ、「構図は当時、尊皇の代表者としてよく描かれていた南朝の忠臣・楠木正成が死を覚悟して臨んだ湊川の戦いの絵に似ているため、神聖化・英雄化に伴う美化を割り引いて考える必要がある」としている。
一方の木像は、高さ約40㌢。制作者は周防大島町出身の画家・中村青田(1912~1981年)で、昭和期の作品であることが確実。肖像画とは表情が若干異なるものの「敷物の上に座り、赤い装束に脇差し姿で立てた扇子を右手に持つ」全体像はもちろん、敷物、装束、脇差しなどの模様は同一で、歴史研究家らは「肖像画を元に作られたのでは」と分析している。
越後公は、江戸末期の長州藩家老で、宇部の領主。藩主・毛利敬親の命を受けて1864年の蛤御門(禁門)の変に出陣し、敗戦した長州藩と藩主を第1次長州征伐から守るため、万倉の領主だった家老・国司信濃らと共に「罪人の汚名」を着て自刃した。この不条理な敗戦処理に激怒した高杉晋作らが挙兵し、倒幕への流れが加速したとされている。
命と引き換えに明治維新をもたらし、汚名もすぐに返上へと至った越後公だが、その容姿は「木像だけ」が市内郷土史研究家の通説だった。「木像が昭和期だけに、肖像画の話を聞いたことはあるが、場所を含めて存在は知らなかった」と山中住職。なお、主神として祭られている宇部護国神社の銅像は、地元彫刻家による2010年の作品。

カテゴリー:教育・文化2013年12月13日

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