小野に二の丸様の石像

毛利秀就公誕生地史跡保存会(平山智昭会長)は、宇部市小野東阿武瀬にある「史跡の杜」への「二の丸様之面影」の石像の建立を記念し、27日午前10時から午後0時半まで、長州藩初代藩主・秀就の出生地とされる同所で顕彰会を開く。美祢市の内田喜美子さん(美東町文化研究会理事)による秀就の実母・二の丸を題材にした紙芝居や、史跡に関する映画の上映を行う。

二の丸は、藩祖・毛利輝元の側室。広島城で秀就を産んだとされてきた。平山会長は8年前、小野地区を治めた財満(ざいま)家で出産していたことを、同家に伝わる記録文書を読み解く中で突き止めた。
石像は、同保存会が昨年設置した二の丸様顕彰碑に続く史跡整備。平山会長と、秀就誕生に関わった財満家の墓を代々守ってきた藤本雍徳さん(72)が中心となって建立した。
高さは台座を含め1・9㍍。参考資料のない中、歴史家の意見を参考にして顔立ちや着物を推定して半身像を作った。参観する人にイメージを膨らませてもらい、史実を伝えたいという思いを込めた。
中世の小野は厚東郡鹿小野町と呼ばれた。財満家では400年にわたり秀就出生の来歴について口を閉ざしてきた。歴史に埋もれた事実の発見を機に発足した同保存会では、同家屋敷跡を「史跡の杜」と位置付け、ゴルフ場で見つかった同家歴代の墓を屋敷跡に移設するなど整備を進めてきた。
平山会長は「顕彰会を通じて、郷土の歴史が語り継がれることを祈っている。小野に住んでいた祖先がどのように生きてきたのか、ひもとくきっかけになれば」と語っている。
二の丸は1584年、徳山上野の領主・杉元宣と結婚し周姫と呼ばれていたが、毛利輝元に夫の元宣を殺された上に、拉致され、側室にさせられたと伝えられている。正室・南の方の嫉妬と確執により輝元の住む郡山城には入れてもらえず、広島城二の丸に仮住まいの身となり、「側室二の丸様」と呼ばれた。90年に懐妊し、秀就を出産。病に倒れ、32歳の若さで他界した。死を直前にした二の丸の遺言は姫山伝説に今も語られ多くの人の涙を誘う。

カテゴリー:教育・文化2014年7月14日

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